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献血ポスターに対する過度に性的との批判は的外れなものなのか(自分なりの考えを綴ってみた)


最近ちょこちょこ長い文章書いてたら楽しくなっちゃって癖になりつつあったりします。
という訳で突然ですが作ったきり放置していたブログに手をつけちゃったりして、最近色んな意見の応酬が続いている某献血ポスターの問題について、私なりの所感を書いておこうかと思います。

ことの発端は献血の協力を求めるポスターに、いわゆる萌えキャラという類の漫画キャラが使われたこと。
そのキャラのイラストが過度に性的である、公共の場に使われるポスターとしてそぐわない、との批判が起こり、それに対して性的ではない、その批判は表現の自由に対する規制だ、との反論も大きく、それぞれの意見の応酬が続く形となりました。
(と、私は理解しているんですが大丈夫ですかね。)

この論議を見ていてとても頭がこんがらがって「あ~~~~~」となってしまった。
それもそのはず。それぞれの意見の応酬、まったく話が噛み合っていない。
ただこれは、どちらが悪いとかそういう話ではないのだと思う。
そもそも最初のボールの投げ方から捻れているからです。問題は、なぜ、この最初のボールの投げ方が捻れなければならないのか、ここにあるのではないか。

私はこの問題が話題になるまでこのポスターを見たことがなかったので、物議を醸しているポスターがどんなものかと思って見たけれど、なるほど確かにこれは物議を醸すわけである。どちらの言い分も分かる。
確かに胸が大きく強調されたおそらく男性向けの萌えキャラで、表情もお色気漫画で見られるようなアヘ顔を彷彿させるものだと感じた。
ただ、女性の裸のイラストでもなく、普段見えない部分を強調して描いている訳でもない。
何が問題なのか分からない、という意見も理解できると思った。

では、なぜこのポスターに批判の声が上がったのか。

まず考えられるのは、「不特定多数の人の目に触れるポスターという媒体に使うのに適当であったかどうか」という問題である。
この点については分かりやすい論議だと思う。
献血の呼びかけは老若男女問わず幅広い層に届くべきものであり、当然ポスターもその目的を果たすため不特定多数の目に触れる駅や街中に見やすく掲示される。
それに相応しいかどうか、ということだ。
公共の場にあのポスターが掲示されることで、不快感を感じた人がいたことは事実である。
不快感を感じる人がいるのであればそれは公共の場に掲示し、不特定多数の人の目に触れる宣伝に用いるのは不適切である。
これは1つのまっとうな考え方である。
ただ一方で、このポスターを見て献血に行こうと思った人もいた。それで献血に行く人が増えればそれはいいことではないか、と言う人もいる。男女問わず、ポスターのイラストを見ても特に性的とも感じることなく、何が問題なのか分からない、という人もいる。不快な人は見なければいい、不快だと感じる人は広告のターゲット層ではなかったのだから放っておけばよい、という考え方の人もいる。
どれも正しい、と私は思う。つまりこれは程度の問題であり、どこまでが公共の場に適切な表現で、どこからが住み分けの必要な表現になるのか、その程度を探っていく必要があるのだ。ちゃんちゃん。

とはならない。

これだけでは、このポスターに対する批判の持つ本当に意味に近づけない。
なぜなら私は今生まれている批判を、単にこのポスターの表現に対する是否のみの問題とは捉えていないからである。

このポスターを批判する立場に立つ人たち、主に女性が多いだろうが、彼女達がなぜこのポスターに不快感を抱くのか、それは彼女達にとって、このポスターは自分であり、現実に存在する脅威を想起させるものだからだ。

現実問題として、本人の意に反して性的客体として扱われ、欲の対象として見られたり、程度の差はあれど時にその欲の捌け口として加害を受けたことのある女性達は多い。
要するに、痴漢被害に遭ったり、職場の飲み会で身体を触られたり、意に反して性的客体として消費される経験をしているのだ。
幸いなことに私は、さほど大きな被害に遭うこともなく、今も周囲にいる男性達は紳士的な方が多く、男性すべてがそういった加害者だとは一切思っていないし、周囲の男性のことを信頼しているし、男性を脅威と感じることもない。

ただ想像はできるのだ。
もっと酷い被害を受けたことがあったら?
もっと頻繁に被害を受けたことがあったら?
この場で表だって言うのが憚られるような、もっと大きな犯罪被害に遭っている人だっているのだ。

世の中には、そういう経験をして傷ついた人達がたくさんいるのだと思う。たぶん、私の想像以上にたくさんいるのだと思う。

そうした人達にとって、性的な客体として扱われることは脅威なのである。

そして今回のこのポスターは、性的な客体としての楽しむことを意図された女性キャラクターを用いているのである。
しかも単にキャラクターを使用するだけでなく、おそらくポスター自体としても、このキャラクターを性的な客体として広告の誘因とすることを意図しているのだと思う。

そうなると性的な客体として扱われることに対する現実の脅威に怯える女性達にとって、これはその恐怖や不快感を想起させるものであると共に、更なる被害を誘発するのではないかという不安をも生むのである。

そんなバカな。たかがポスターのイラストだぞ?何を大袈裟に。

そう思う人も多いかもしれない。
だが、ここにこそこのポスターを批判する側と、批判の意味が分からず笑ったり怒ったりする側の大きな認識の差が存在しているのだと思う。

ポスターはポスターであって、二次元の世界の話だ、それを現実問題に持ち込むなど馬鹿馬鹿しい。フィクションと現実の区別もつかないのか。

そう思うかもしれない。
そしてそれは、世の中がそんな分別のついた人達ばかりであれば確かにその通りなのだ。

だが、実際に痴漢だのセクハラだの、そんなことが日常的に多発している。
フィクションと現実の区別がついていないのはそういう加害者達だ。
もの言わぬ二次元のキャラと同じように、現実の女性を性的な欲の対象として扱っている。

もちろん加害者が全員アニメ好きだとかオタクだとかそんなことは思わないし、そんなもの見ようが見まいが加害する人はするし、まともな人はそんなことはしない。そんなことを言いたいのではない。
ただまともな人間が二次元の世界を楽しむだけで止めておけるところを、一部のまともでない人間が分別もつかず現実でも同じことをやっているのだ。

だから脅威に怯える側からすれば少しでもトリガーになりうるものは極力排除したいと思うだろうし、そうした目線で見られる二次元キャラを目にすることで、同じように性的客体として消費された過去や、消費されるかもしれない未来を想起して恐怖や不快感を抱くのである。

一部のまともでない人間のために表現が枯渇していってはならない。
そう思う人も多いだろう。

その通りだと思う。
ここでようやく私の伝えたいことを伝えられる。
真に変えていくべきは、表現の世界ではなく、現実の世界の方なのである。

なぜならばこのポスターに批判の声をあげる人達が本当に求めているものは、決して胸を強調した二次元キャラの駆逐ではなく、性的客体として消費されない自分であり、性的客体として消費される恐怖に怯える必要のない社会なのだから。

規制規制で生まれるものは、結局は彼女達自身の首を絞めてしまうと私は思う。
このようにごく常識的な服装の女性キャラクターを、胸が強調されているから性的だ、不適切だ、としてしまうと、それが行きつく先は「痴漢に遭ったのはそんな露出の多い服装をしていた女性側が悪いからだ」、「男性の欲を誘うような見た目や身体をしていたのが悪い」といった、信じられない理不尽なのではないか、という危惧がある。

それは批判する側としても避けたいだろう。

それでもこのような主張をしてしまうのは、現実の被害に対して真っ向から戦うことに疲弊してしまったからではないだろうか。
現実の被害をなくそうとしても、被害を訴えても、「気にしすぎだ」、「どうせ露出の多い服装をしていたのでは?」と謗られ、次第に口をつぐみ、できる限り自衛するしかないと、性的客体として見られないようにすることに努力の方向が向くようになってしまったのではないだろうか。
そんな中でああしたポスターが現れれば、せっかくの努力を嘲笑うかのように無駄にしてしまうものと感じてしまうであろうと、そんな想像が難くない。

要するに、現実の被害がなくなれば、女性達が現実の脅威に怯える必要のない社会であれば、あのポスターは女性達の脅威となることはなく、過度に性的だといった批判を受けることもないのである。
現実の被害に怯える必要がなければ、あのポスターは誰にとっても、あくまで二次元の中のものであり、分別をつけて楽しむためだけのものとなる。女性達からしても脅威ではなくなり、たとえ好みではなかったとしても放っておけるものになる。
本来ならばそれが理想であるところ、現実問題そうした被害が多発しているのだから、あの批判をする人達は現実の中でまだマシな選択肢として、ポスターを排除する主張を選択しているのである。
つまり囚人のジレンマのような事態が生じている。

だからポスターの是否を論じているだけでは何の解決にもならないのである。
ポスター自体に問題はないという主張は理解できる。
けれども本質はそんなところにはないのだ。

痴漢がいれば周囲が被害者を守り、少なくとも被害を告発すれば被害者は労られ加害者が糾弾される。
意に反して身体を触られたり性的な発言を受けている人がいれば、周囲がNoを突きつけ、少なくとも被害者が声をあげた時に被害者の味方となる。
そうして社会全体で、断固として現実の加害を許さない、そういう空気を醸成し、加害を抑止していくこと。
誰もがそんな加害に怯えなくて済む社会を作っていくこと。

これがこの問題を本質的に解決する方法なのである。

もう一度まとめておきたい。
フィクションの世界や表現の世界に対する規制に反発するのであれば、真に論じ、変えていくべきは、フィクションの世界の話ではなく現実の世界の話なのだ。
現実にある脅威や被害を無視して、被害者側の声を黙殺した上での自由、ではあまりに暴力的で不公平なのではないだろうか。

表現の自由を守りたければ現実の被害に目を向けてください。
そしてともに戦ってください。
ポスターを批判しているようにしか見えないのに、そんな本音を察してくれなんて無理だと思うかもしれない。面倒に感じるかもしれない。確かにそういう面もあるだろう。
けれどもこの批判は、そうするしかなかった人達の悲鳴なのである。
どうか少しだけ、想像力を働かせてもう一度この問題を本質から考えてはいただけないだろうか。

最後に、これも私の一意見で、私がそう捉えたという所感でしかありません。
なのでそれぞれの立場を想像で語っている部分も多々あり、当事者からすればそれは違う、と思われる部分があるかもしれません。
あくまでそんな捉え方もあるのかもしれない、と、1つの意見として思考の一端となれば幸いです。
では、長々と失礼いたしました。
お粗末さまでございました。